毎週水曜日は朝に全校礼拝が行われます。
6月10日、6月18日は以下のようなお話をしていただきました。
6月10日(水)
聖書 マルコによる福音書10:42-44
メッセージ 「仕える者に」 樋口 進 牧師
今日の箇所はイエスの弟子であるヤコブとヨハネが、「イエスが成功したら私たちを上の立場の役としておいてほしい。」と願い出てきた話しです。
ヤコブとヨハネはペトロに次ぐ重要なイエスの弟子でした。
しかし、これを聞いて他の弟子たちも大変怒りました。
自分たちだって上の立場につけてほしいと思っていたからです。
そこでイエスはこう言いました。
「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力が権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。」
一般の世間では人々を支配したいと思っていても、あなたがたの間ではそれではダメだといっています。
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。」
上の位にたったり、支配することがえらいわけではない。
本当に偉いのは人々のために仕えること。
イエス自身がそうでした。
イエスは食事の席で弟子たちの足を洗ったことがあります。
この時代で足を洗うことは弟子たちの仕事なのに。
それを自らやったのです。
それは弟子たちも他の人々に奉仕をすること。
仕えるということを伝えているのです。
キリスト教の精神の中で、「奉仕の精神」というものがあります。
人々に仕えるということです。 いばるのではなく、人々のために、周りの人のために行動することが本当の偉さにつながるのではないかと思います。
6月18日(水)
聖書 マタイによる福音書20:12ー14
メッセージ 「同じ扱いをしたい」 樋口 進 牧師
今日読んだ話は、イエスがされた譬話で、「ぶどう園の労働者の譬」と言われています。
ここのぶどう園の主人の行動は、非常に変です。
長く働いた人も少ししか働けなかった人も同じ賃金を支払ったからです。
ぶどうの収穫の時期は、人手が沢山いります。
そこで、ぶどう園の主人は、夜明けと同時に市場に行って、人を雇うのです。
その時、雇われる人と1日1デナリオンの約束をしたのです。
1デナリオンというのは、当時の1日の賃金の値でした。
それから、まだ人手が足りないので、9時頃と、12時頃と、3時頃にも市場に行って人を雇ったというのです。
その時は、「相当な賃金を払う」と言うだけで、いくらとは約束していません。
それから、5時頃にも出掛けて行って、まだそこに立っている人を雇った、というのです。
さて、日が沈んで賃金を支払うときになり、その主人は管理人に命じて、まず5時から雇われた人に1デナリオンを支払ったというのです。
ですから、朝早くから雇われた人は、もっともらえるだろうと思っていたら、やはり1デナリオンしかもらえなかったのです。
当時の1日の労働は、夜明けから日没までだから、大体12時間位でした。
その人が夕方たったの1時間位しか働かなかった人と同じ賃金しかもらえなかった、というのであるから、この人は主人に文句を言いました。
全く不公平だ、と思うのは当たり前です。
しかし、ここで、夕方5時に雇われた人のことを考えてみましょう。
この人たちは、怠けていたのではありません。
彼らは「だれも雇ってくれませんでした」と言っています。
朝早くから市場に立って、雇われたいと思っているのに、そして回りはどんどん雇われていくのに、雇われなかったのです。
この人たちは、ひょっとすると、高齢であるとか、身体に不自由なところがあったのかも知れません。
あるいは要領が悪くて、いつも他の人に遅れを取っていたのかも知れません。
しかしその人たちも食べていかなければならないのです。
働くことができなかったら、その日の食糧を買うことも出来ません。家では、家族の者がおなかをすかせて待っているかも知れません。
この主人は、「この最後の者にもあなたと同ように払ってやりたいのだ」と言っています。
ここに、この主人(実は神であるが)の気持ちが表されています。
神は私達を皆同ように扱いたいのです。
朝早くから夕方まで働くことの出来た人は、健康で、忍耐力があり、優秀な人です。
しかし、働きたくても、体が丈夫でなかったり、障害があったりして、あるいは、運もわるくて、働くことの出来ない人もいます。
この人たちは、実は働くために、朝早くから市場に来て、雇われるのを待っていたのです。
しかし、だれも雇ってくれなかったのです。
いわば落ちこぼれです。
そして、この主人によってやっと雇われたのです。
しかし、早くから働いた人は、この1時しか働かなかった人のことを理解せずに、自分と同じ扱いをした、と言って怒っているのです。
人間は、自分が他よりも優秀だと思っている時、他の人と同じ扱いをされたくないのです。
何かで差をつけてもらいたいのです。
しかし神はどんな人も同ように扱いたい、というのです。
差別というのは、自分が他の人と何かで差をつけてもらいたい、という思いから来るのです。
しかし、神はそのような差をつけることを欲してはいないのです。
逆にみんなを同じに扱いたいと思っているのです。