本日収穫感謝礼拝が行われました。
《讃美歌》 《樋口牧師の話》
《祈祷》
《生徒の様子》
樋口 進 牧師のメッセージ 「神の恵みに感謝する」はこちらをクリック
また、このあと文化祭のグルメ投票の結果も発表されました。
優勝は2年生体育科の「たこ焼き」、2年生萩組の「豚汁・お団子」の2クラス。
3位は2年生桃組「たこせん」でした。
生徒の皆さんが持ち寄ってくれた果物は放課後、各施設へ配られます。
これからも与えられた恵みに感謝して、生活していきましょう。
今日は、収穫感謝日礼拝に当たっています。
前に備えられた収穫物を見ながら、神に感謝しつつ、礼拝を行います。
私達は、直接農業に携わっている人はいないのではないかと思いますが、豊かな収穫を与えて下さる主に感謝しつつ、この礼拝を守りたい。もし、収穫物がなければ、あるいは、収穫物を手に入れることができなければ、わたしたちは生きることができません。そして、収穫物は、日の光や雨などの天の恵みがなければ得ることはできません。
「収穫感謝祭」の起源は、アメリカのThanksgiving Dayにあります。1620年、イギリスのピューリタンが新天地を求めてメイフラワー号に102人の人々が乗って、長い航海についきました。この航海で人々の心は動揺し、不安がつのりました。そしてやっとの思い出、アメリカに着いきました。時期は、11月頃で、家も食物も不十分でした。彼らは早速丸太で家を建て始めましたが、皆長い航海に疲れて一時に多くの病人が出、看護に追われる有り様でした。しかし、アメリカの原住民が冬の用意にと多くの食物を蓄えており、新来の人々にも分けてくれました。やがて春が来ました。木の葉が萌え、暖かい春風が吹く頃になると人々は元気になり、原住民たちも親切にトーモロコシ、豆、麦の種などを分け与え、農耕の術を教えてくれました。種が芽生えて花が咲き、美しい自然の中についに麦の初穂が彼らの手によって刈り取られました。秋になれば多くの果実も、彼らの篭を満たしました。
人々は昨年の苦しみを思い出し、今の恵みを神に感謝したいと思い、また親切であった原住民にも心から感謝したかったのです。
人々は作物を手に教会に集まり、その実りに感謝し、礼拝を捧げました。これが11月の第三木曜であったので、その日が収穫感謝日となりました。
コリントの信徒への手紙二9章15節に
言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。
とあります。
アメリカに移住したピューリタンたちは、正に、言葉では言い尽くせない贈り物のゆえに、神に感謝をしたのです。
10節には、次のようにあります。
種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。
農業に携わる人は、自然の恵みに敏感です。種をまき、それが実になるまでには、人間のいろいろな努力も勿論必要ですが、太陽や雨の恵みがなければ収穫は出来ません。
旧約聖書の詩篇126篇5節には、「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る」と言われていますが、農耕に携わる人にとって、収穫の喜びは格別のものです。
そして神はまた、農業に携わらない人にも、それに劣らない多くの恵みを与えてくださいます。農業に携わる人は、天の恵みを直接感じますが、特に現代のサラリーマン、商売人、自由業といった人々は、自然に於ける天の恵み、というのは感じにくくなっているのではないでしょうか。
収穫感謝礼拝と言っても、今日は果物を各自持って来て礼拝しましたが、それは家で作ったものではなく、皆お店で買ったものばかりではないでしょうか。私達にとって、収穫感謝祭は、農業に携わっている人ほど実感はないかも知れません。しかし、神の恵みは農作物だけではありません。
8節には、次のようにあります。
神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。
ここでパウロは、神は私達にあらゆる恵みを豊かに与えてくださる、と言っています。事実私達は、実に多くのものを神から与えられているのです。そして、多くの場合、それに気がつかないのです。
イエスは、山上の説教で「思いわずらってはならない」と言われました。
私達はややもすると、多く与えられていることに気づかず、不幸や不満を持ち、思い煩う生活をしているのではないでしょうか。何不足ない暮らしをしていても、神の恵みに気づかない場合、それさえも不平、不満になります。一方、神の恵みに気づく場合は、乏しい状況にあっても感謝となります。パウロはいつも感謝の生活をしていたようです。
12章7ー9節に次のようなことが言われている。
また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
「パウロの肉体に一つのとげが与えられた」とありますが、これは激しい発作を伴う病気であると言われています。多くの学者は、このパウロの持病は、てんかん性のものだった、と言います。パウロは、この病気にしばしば悩まされました。その苦痛が大きかったので、彼は3度それを除いて欲しいと主に願った、と言っています。しかし、それに対する主の答えは、「私の恵みはあなたに十分である」というものでした。パウロは、自分の一番の苦痛の種である持病を取り除いてもらえませんでしたが、しかしそれにまさる多くの恵みを与えられていることに、常に感謝の毎日であった。神の恵みに感謝する場合、それに応えて捧げるということが行われます。
先程のメイフラワー号でアメリカにやって来たピューリタンたちは、取れた収穫物をまず、神の前に捧げました。私達は神の恵みを豊かに受けていることに気付き、そしてそれに感謝するなら、今度は捧げるというように促されます。15節にあるように、「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。」。
私達の日々の生活は、このような、「神の恵みに感謝する」歩みでありたいと思います。