クリスマス礼拝を行いました

高等学校

中学校

本日、クリスマス礼拝を行いました。
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クリスマス行事として、例年とは違い、朗読劇を行いました。
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《賛美歌》 108 番                《聖書朗読》 ルカによる福音書2:8-14
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《讃美歌》112 番                 《メッセージ》 
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樋口 進 牧師のメッセージ  「地には平和」はこちらをクリック
《賛美歌》 109 番                 《主の祈り》
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《頌栄》 541番                   《祈祷》
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クリスマス礼拝

ルカによる福音書2章8-14節    「地には平和」
イエスの誕生を待ち望む第4週を迎え、ローソクの四本に火が点されました。

そして12月25日は、クリスマスです。クリスマスは、言うまでもなく、イエス・キリストの誕生を祝う日です。  さて、イエスの誕生は、どのようなものだったでしょうか。

先ほどお読しまましたルカによる福音書2章12節の所には、次のようにありました。

あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。

  ここでイエスは、生まれると「飼い葉桶の中に寝かされていた」といわれています。 すなわち、イエスは、家畜小屋で生まれ、牛や羊などが食べる干し草を入れる桶に入れられた、と言うのです。イエスは、馬小屋で生まれた、と一般に言われていますが、正確には家畜小屋です。というのは、当時馬は普通は戦争に使われ、一般の人は飼っていなかったからです。イエスが生まれたのは、旅先の一般の家の家畜小屋でした。イエスが生まれたベツレヘムには、降誕教会というのがあります。私も行ったことがありますが、その降誕教会の地下にイエスが生まれたとされているところに星印があります。それは洞窟のようになっているところで、「えっ、こんなところで生まれたの」の訝しく思いました。

しかし、当時の家畜小屋は、洞窟であったという説があります。そうしますと、降誕教会の地下にある星印も、まんざらでたらめというわけではないようにも思えます。しかし、そのような洞窟で出産するというのは、普通ではありません。 この当時の貧しい人でも、生まれる赤ちゃんのために暖かい布団に柔らかい産着ぐらいは用意したものです。なぜ、イエスは粗末な布にくるまれ、飼い葉桶に寝かされたのでしょうか。イエスの両親のヨセフとマリアは旅の途中であり、しかも泊まる所がなかったのです。 この旅は、決して新婚旅行といった楽しい旅ではありませんでした。 反対にとてもつらい旅でした。マリアは臨月に近かったので、できればこのようなつらい旅には出かけたくなかったでしょう。静かに家にいて、出産を待ちたかったに違いありません。 しかし、ローマ皇帝アウグストゥスの住民登録の命令に従わない訳にはいきませんでした。ここに、支配されている国に住む無力な人の悲しい姿があります。

 さて、イエスが生まれた当時のユダヤは、ローマ帝国の圧倒的な力によって支配され、一般民衆は過酷な生活を強いられていたのです。そのような支配されている貧しい民衆のつらい出来事の中で、イエスは誕生されたのです。この当時のローマ皇帝アウグストゥスは、支配した国からどれくらいの税金が取れるかを調べるために何度か住民登録を行いました。イエスの両親の住んでいたのは、ガリラヤのナザレという小さな町でした。そこからベツレヘムまで旅をしたのですが、その間約200キロあります。それもこの時代ですから徒歩で山を越え、谷を渡っての旅ですから大変だったと思います。しかもマリアは大きなお腹を抱えての旅でした。無力な二人には、ローマ皇帝の命令には従わざるを得なかったのです。そして、その結果、旅先の家畜小屋で出産しなければならなかったのです。しかし、そのような貧しい姿で救い主がお生まれになるのは、実は神の御心だったのです。このような貧しい姿で生まれられたイエスは、人々の貧しさを知り、抑圧されているものの苦しみを知り、病人の苦痛を知り、これらの人々に憐れみをかけられたのです。

 さて、そのイエスの誕生を一番先に知ったのは、これまた貧しい羊飼いたちでした。

当時の羊飼いはとても貧しい階級でした。このイエスの誕生の光景を支配しているのは、「貧しさ」とか「無力」ということです。両親のヨセフとマリアも貧しく、無力でした。

泊まった所も貧しい所でした。そして、お祝いに駆けつけたのも、これまた貧しい、無力な羊飼いたちでした。彼らは野宿しているときに、主の天使によって、イエスの誕生を知らされたのでした。

 イエスが生まれたのは、私たち人間を闇の世界から救うためでした。

11節には、次のようにありました。

 「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。

  私たち人間を救うために、神はイエス・キリストをこの世に生まれさせることによって、私たちの世界に関与されたのです。この救い主は、ギリシア語ではソーテールと言います。

そしてこのソーテールという語は、しばしばこの世の王に対して使われました。先ほどのローマ皇帝アウグストゥスも、ソーテールと言われました。彼は、強大な権力を持って周りの国々を支配下に治め、表面的には平和な状態を作っていました。「ローマの平和」と言われています。しかしルカはここで、この世の権力者にも使われていた「救い主」という語を、あの皇帝アウグストゥスに対してではなく、貧しい、飼い葉桶に寝かされているイエスに用いたのです。預言者イザヤが預言したように、イエスこそ真に平和をもたらす真のメシアです。そして天使たちは、14節において、次のように賛美しました。

いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。

 この当時、「ローマの平和」と言われていました。しかし、それは強大なローマ皇帝の権力のもと、圧倒的な軍事力で他を押さえつけて、表面的に戦いのない状態を作り出していただけなのです。しかし、その平和の背後には、イエスの両親が経験しなければならなかった虐げや悲しみがありました。このような状態は、支配者だけの平和であって、真の平和とは言えません。イエスは、そのような権力でもって無理に平和を作り出したのではなく、逆に貧しい、無力な姿でこられました。しかし、ここにこそ真の平和があるのです。預言者イザヤが夢見たのも、このような「平和の君」でした。現在、多くのところで争いが行われ、多くの人が犠牲となっています。そしてそれはすべて、権力争いです。自分の権力でもって他を押さえつけようとするのです。しかし、そこからは真の平和は実現しません。イラクやパレスチナの現実もまさにそうだと思います。アメリカやイスラエルは圧倒的な軍事力でもって、他を押さえつけて問題を解決しようとしています。しかし、そこにおいては、貧しい、無力な一般市民が悲惨な状態におかれています。そこで彼らは、アメリカやイスラエルの軍隊に不信感や憎しみを覚えるだけです。武力や力で押さえつけても、それは決して真の平和ではありません。全世界の人々が、貧しい姿で生まれられた「平和の君」の御心を思うことができるなら、きっとそこに真の平和が実現するでしょう。イエスは、そのようなことを私たちに望んでおられるのではないでしょうか。天使は、「地には平和、御心にかなう人にあれ」と言いました。私たちは、世界の多くのところで今も悲惨な争いが行われ、日々犠牲者が出ていることに心を痛めます。そのような中で、少しでもイエスの御心にかなうことによって、平和が実現されることを切に祈るものです。