聖書 ルカによる福音書福音書15:4-6
メッセージ(説教) 「 愛されていること 」
樋口 進 牧師
今日の聖書は、有名な譬え話なので、お聞きになったことがあるのではないかと思います。
ある人が100匹の羊をもっていて、その内の1匹がいなくなった時、後の99匹を野原に残しておいて、いなくなった1匹を見つけるまで探し回るという話です。ここでの羊飼いの態度は、非常に奇妙に思えるかも知れません。1匹がいなくなったからといって、99匹を危険なところに残しておいて探しに行くでしょうか。私たちの考えからすると、1匹よりも99匹の方が大切であり、重要であるというふうに思うでしょう。
また、もう一つのことに注目するならば、群れから離れてしまう羊は、健康な強い羊ではなく、不健康な弱い羊です。羊は目が余りよくないから、群れをなして歩いていく訳ですが、少し群れから離れてしまうと、すぐ迷ってしまいます。迷ってしまう羊は、性格的にも、あるいは健康上もしっかりしていないのです。あるいは、体のどこかに障害があって、群れのスピードについて行けなかったのかも知れません。群れ全体からしても、こういう羊がいると迷惑であり、群れ全体のペースが乱れてしまいます。こういう羊がいると、群れにとっても迷惑なことです。常に歩調を乱してしまいます。こういう弱い、群れに迷惑をかけるような羊が1匹いなくなったからといって、99匹を野原に残してまで探しに行くでしょうか。足手まといとなっているこんな弱い羊を探しに行っている間に、野原に残された99匹に何か危険なことが起こらないだろうかと、そっちの方に自然と関心が行くのが普通ではないでしょうか。あるいは、合理的な損得勘定で考えるならば、そんな弱い羊は適当に処分してしまって、もっと丈夫な羊に代えればよいというふうに思わないでしょうか。
しかし、このイエスの話された譬え話では、この羊飼いには、そんな考えは全くありません。迷い出た羊が他の何ものにも代えることの出来ないものなのです。また、わたしたちの社会は、代替可能な社会です。すなわち、すぐ他のもので代えることができる社会です。これはたぶんに機械文明の影響があるでしょう。機械においては、ある部分が故障すれば、それは捨てられ、次の新しい部品で代用していく訳です。そして、そういう考え方が人間社会にも影響を与えているというふうに思われます。企業でも、従業員はある意味では機械の一つの部品としか見なされません。その人が何かの都合で自分に与えられている仕事が出来なくなっても、会社としてはそうたいして困りもせずに、その人の代わりに別の人をもってきて、その仕事をさせます。それで会社自体としては何の支障もなく進んでいく、そのような仕組みです。その人でなければ駄目だ、自分でなければ駄目だ、ということは余りありません。そういう代替可能な社会です。
羊飼いにとっては、いなくなった羊は他の何ものにも代えられないかけがえのないものでした。この譬え話を通して、イエスが言おうとしていることは、神は私たち一人ひとりを、他の何ものにも代えることのできない、かけがえのないものとされているということです。