6月8日(水)全校礼拝が行われました。
讃美歌 575番 (1、2番)
聖書:マルコによる福音書10章42-44節
題名:「仕える者になる」
夙川学院宗教主事 樋口 進 牧師
お読みした聖書の箇所は、イエスの弟子のゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスにお願をしたという記事です。
このヤコブとヨハネの兄弟は、イエスの十二弟子の中ではペトロに次いで重要な人物でした。
さて、このヤコブとヨハネの兄弟は、常にイエスのそばに仕えていたので、イエスが栄光を受ける時、すなわち、この世の支配者になる時に、彼らは最も高い地位につくことを期待したのです。
さて、この二人の願いを聞かれたイエスは、非常に悲しまれました。
また、このヤコブとヨハネの願いを聞いた他の弟子たちは皆、腹を立てたというのです。
41節には、「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」とあります。他の10人の者が何故腹を立てたかというと、彼らも実は同じことを願っていたからでしょう。
彼らは決して、イエスの思いに立って腹を立てたのではありません。
そうではなく、自分たちも同じ思いをもっており、それを二人に先を越されたという思いからでした。
そこでイエスは、御自分が何のためにこの世に来られたかということを弟子たちに教えられました。
42節には、次のようにあります。
そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
異邦人の支配者というのは、ここではローマ帝国の支配者のことです。彼らは支配している国の民の上に権力を振るっていました。これは当時のユダヤ人が日頃実感していたことです。当時のユダヤは、ローマ帝国の支配下にあり、特に重税で苦しんでいました。このような帝国の支配者は、被支配国に権力を振るって、自分の欲を満たしていたのです。すなわち、被支配国から富を吸い上げて、例えば自分の宮殿を建てるといったことをしていたのです。これがこの世の権力者の常の姿です。しかしその反面、権力者に支配されている人々は、非常に苦しい生活を強いられていました。権力を求めるということは、そのような非常に苦しい立場の人々を作り出すということなのです。
そのように、権力を志向することが神の御旨でないことは、弟子たちも分かっていたはずです。しかし、現実には、弟子たちもやはり人間であり、イエスがただの人でないことが分かると、権力の座について欲しいと願ったのです。
そしてその暁には、自分が最も高い地位につけてもらいたい、と思ったのです。そして他の弟子たちも同じ思いをもったので、互いに相手のことに腹を立てたのです。しかしイエスは、「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない」と言われます。この世ではそうであるかも知れないが、「あなたがたの間では」そうであってはならない、と言うのです。
そして、次のように教えられました。
43-44節。
しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。そしてイエスは自らこれを行われました。すなわち、イエスは最後の晩餐の席で、自ら弟子たちの足を洗われたのです。45節には、次のようにあります。
人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
イエスは、人々から仕えられるためにこのように来られたのではなく、人々に仕えるためだ、と言うのです。そして、この仕えるというのは、聖書では、神に仕え人に仕えると教えています。自分の欲を満たすためではなく、人々のために働くと言うことが大切です。これは、イエスの教えられた「奉仕の精神」です。マザー・テレサは、インドにおいて、僕となっての貧しい人のために働きましたが、これはイエスの教えた「奉仕の精神」を実践したのです。わたしたちも、自分の欲のためだけに働くのでなく、人々のために働く人になりたいと思います。