11月2日(水)全校礼拝が行われました。
讃美歌 ♯387番
聖書 マタイによる福音書25章1-13節
「取り返しのつかないこと」
今日の話もイエスの譬え話しです。タイトルには「10人の乙女のたとえ」とあります。10人の乙女がいて、5人は油を用意していたが、残りの5人は用意していなかったためそれを買いに行っている間に花婿が到着し、もう家には入れてもらえなかった、という話しです。この話は、私達に人生には取り返しのつかないこともある、ということを教えていると思います。失敗も許される失敗と、もう取り返しのつかない事がある、ということです。皆さんが中間試験でもし悪い成績しかとれなかったとしても、決定的な失敗ということではないでしょう。期末試験に頑張れば、取り返せるでしょう。そう思って、一生懸命勉強すれば、それはかなえられると思います。スポーツの試合でも、相手に負けてしまっても、それは決定的な敗北ではありません。今度勝てるように一生懸命練習すれば、それはかなえられると思います。むしろ、失敗をして、その反省から、今度は頑張る、ということもある。失敗しても、それをバネにしてかえってよくなるということもあります。日本シリーズでは、残念ながら広島カープは日本ハムに敗れて、優勝することができませんでしたが、広島ファンは、それで絶望に陥ったのではなく、来年に期待しています。こう言う失敗は、回復できます。決して、取り返しがつかないのではありません。
しかし、人生には、取り返しのつかない失敗もあります。私の中学の時の友達にも、取り返しのつかない結果になった人がいます。その友達は、運動神経が抜群で、体操部に入っていました。そして、その演技に皆のあこがれでした。私たちは、彼がやがて、オリンピックにもでられるのではないか、と期待していました。ある時、彼が近所のおじさんの乗っていたバイクに乗りたくて、おじさんにバイクの鍵を貸してほしい、と言いました。彼は中学生なので、勿論バイクの免許は持っていませんでした。しかし、おじさんは、その彼がとても運動が上手なので、バイクなんか簡単に乗れると思い、軽い気持ちでバイクの鍵を貸してやったのです。そして、彼はバイクに乗って、隣の町まで行き、帰りに下り坂でスピードを出し過ぎて、カーブを曲がりきれず、壁にぶつかって、倒れてしまいました。即死でした。14才の短い生涯でした。そのお母さんはとても嘆き悲しんで、鍵を貸した近所のおじさんに、鍵さえ貸してくれなかったら、と悔やんでいました。しかし、後から悔やんでももう取り返しがつきません。このおじさんは、軽い気持ちでかぎを貸したことを、一生後悔して暮らすことになりました。これは、今度気をつければ、取り返しがつく、というものではありません。
今日のイエスのたとえ話ですが、5人の愚かなおとめは、ちょっとした不注意で油を用意することを忘れてしまったのです。しかし、それが取り返しのつかないことになったのです。油を買いに行っている最中に婚礼が始まって、扉が閉められてしまった、と言うのです。ここでイエスは、失敗にも取り返しがつくものと、取り返しのつかないものがある、と言うことを教えているように思います。もし自分が軽い気持ちでしたいじめが原因で、だれかが自殺したとしたら、その人は、一生後悔するのではないでしょうか。イエスはここで、「目を覚ましていなさい」と言っています。これは、私たちに対する警告だと思います。