11月9日(水) 全校礼拝

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中学校

11月9日(水)全校礼拝が実施されました。
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聖書:ルカによる福音書15章11ー24節
讃美歌:387番
「絶望からの救い」

 

 今日は、イエスがされた「放蕩息子のたとえ」について学びます。この話はとても有名で、「世界で最も偉大な短編」とも言われています。
前回は、「10人のおとめのたとえ」で、「取り返しのつかないこと」という話をしましたが、今日は、人生には絶望はない、必ず希望があるのだ、という話をします。
 さて、この物語の父親には、二人の息子がいました。兄と弟です。聖書には、しばしば、全然性格の異なった兄弟が登場します。例えば、旧約聖書の最初の方に、カインとアベルという兄弟が登場しますが、これも全然性格が異なっています。そして、今日のテキストにおいても、全く対照的な人物のようです。兄は、どちらかと言うと、真面目で、親孝行で、働き者のようですし、弟は逆に遊び好きで、怠け者で、親不孝者でした。そして恐らく、優等生の兄にいつも劣等感をもっていたのではないでしょうか。一方真面目な兄は、ぐうたらな弟を軽蔑していたでしょう。
 さて、この弟は、親に自分の財産を要求しました。12節。
  弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前  をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。これは、遺産の先取りです。ユダヤの法律では、こんな場合、父の遺産は、兄には3分の2、弟には3分の1が与えられることになっていました。しかしそれは、父が死んだ時であって、父親が生きている間は、その財産は父が管理することになっていました。弟は何故、父の遺産を先取りしようとしたのでしょうか。それは、父の家を離れて、自由に行動したかったからでしょう。父の家では、何不自由ない生活であったと思われますが、そこに魅力を感じず、もっと面白い世界がある、何でも自分の好き勝手にできる所がある、と思ったのでしょう。自由ということは、非常に大切なことです。しかし、何でも自分のしたいようにする、ということは、本当の自由ではありません。自由には、必ず責任と言うことが伴います。13節には、次のようにあります。
 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。この放蕩息子は、自由というものを、自分の欲のままに勝手気ままにしていいと理解したのです。このような自由の結果は、決していいものとはなりません。この弟は、お金があれば何でも自由に出来ると考えたのでしょう。しかし、お金の力なんていうのは、実にはかないものです。特に自分の楽しみのために使う場合は、あっと言う間です。
 この弟は、自分の力で、自分の好き勝手に、自由に生きようとしましたが、父からもらった財産も瞬く間に使い果たし、食べるものもなくなり、とうとう豚飼いをさせられたのです。ユダヤ人の社会では、豚は汚れた動物とされていました。しかし、彼には、その汚れた動物である豚の世話をする仕事しか残されていなかったのです。しかも16節を見ますと、彼はその豚のえさであるいなご豆で腹を満たしたいと思った、とあります。この弟の人生は、全くの失敗です。行き倒れになるしかありません。まさに、取り返しのつかないことをしてしまったのです。先週の話の愚かなおとめの状態です。しかし、取り返しのつかないことをすれば、全くの絶望かと言うとそうではありません。取り返しのつかないことになっても、それで終わりではありません。まだ、希望が残されているのです。「あんぱんまん」の作者のやなせたかしの本に『絶望の隣は希望です』という本があります。まさに、この放蕩息子は、絶望のただ中で希望を見出したのです。それは、この息子は、この惨めな状態の時に、父のことを思い起こしたのです。
17-19節。
  そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』ここに「本心に立ちかえった」とあります。ここで息子は、今本来の場所である父の所へ帰ろう、と思います。これが、悔い改めです。心から反省する所から新たな希望が与えられるのです。そして、この息子は、父のところに帰り、新たな歩みをすることができたのです。たとえ取り返しのつかないような失敗をしても、それを心から反省し、心を入れ替えるなら、希望が生じるのです。