11月30日(水) 全校礼拝

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11月30日(水)全校礼拝が実施されました。
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聖書:ルカによる福音書1章26-38節 
讃美歌:263番 
「アドベントによせて」

 

 キリスト教では、クリスマスの前の4週間をアドベントといいます。今年は、11月27日(日)にアドベントが始まりました。そして、夙川学院では、一昨日の月曜日にクリスマスツリー点灯式が行われました。参加して下さった方もいると思います。アドベントというのは、「到来」という意味ですが、日本語では「待降節」と言います。アドベントは、キリストの降誕を待ち望む時期ということです。 さて、今日読んだ聖書の箇所は、マリアが天使によって受胎告知をされる記事です。この物語は、歴史を通して、世界の多くの人々に大きな感動を与えてきました。ここには、この物語を伝えた当時の貧しい民衆の素朴な信仰が反映されていると思われます。「受胎告知」は、マリアがまだ結婚する前に身ごもったことを天使に告げられる記事です。マリアは、そんなことを告げられて、非常に戸惑いました。34節と見ますと、
  どうしてそんなことがあり得ましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。と言っています。一般に処女降誕と言われていることです。こんなことは私たちの頭では考えられないことです。こんなことは、科学の発達した現代であるから信じられないのではなく、昔からそんなことは考えられないことでした。ここでマリアも、「どうしてそんなことがあり得ましょうか」と言っています。そして、マリアにとって、妊娠などしたら非常に困る事態なのです。というのは、マリアはヨセフという男と婚約をしていました。ですから、もし妊娠ということになれば、それは過ちを犯したことになり、婚約が解消されるだけでなく、非常に厳しい制裁を受けなければならなかったのです。それは、この当時の習慣としては、石打の刑でした。これは大きな屈辱でした。このときのマリアの不安、恐れはいかばかりであったでしょうか。いくら天使の言葉でも、そんな事態になっては困る、と思ったでしょう。そしてここで天使の言ったことは、35節に記されています。
  聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。さらに37節では、
  神にできないことは何一つない。と言いました。
この天使ガブリエルの言葉に、マリアはもはや「どうしてそのようなことがあり得ましょうか」とは言いませんでした。そんなことが起こっては困る、とは言いませんでした。今度は彼女は素直にそれを信じました。そして、38節において、わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように。と言いました。ここではもう、以前の疑問や不安はありません。29節でマリアは「戸惑った」とありました。これは、異常な事態が起こったときの極度な不安を言い表しています。しかし天使の言葉によって、神が大きな業を起こそうとしていることを信じたのです。そして、困った事態になると思われたにもかかわらず、その事態を受け入れたのです。素直にこの困った事態を受け入れたのです。ここにマリアの素直な信仰があります。また、真の強さがあります。そして、わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。と言ったのです。たとえ困った現実になったとしても、神の与えたものとして受け入れたのです。これは、自分を全く神に委ねた態度です。マリアは天使に「恵まれた方」と言われましたが、それは神の言葉を素直に信じたからではないでしょうか。マリアが「何と幸いでしょう」と言われたのは、処女降誕という超自然的な奇跡が彼女の身に起きたからではなく、「神に出来ないことは何一つない」と言うことを心から信じ、すべてを神に委ねたからです。私たちも、私たちの頭で考えられないことに「どうして、そのようなことがありえましょうか」と疑い、それと共に不安や恐れを抱くのでなく、神が私たちを救うために実に大いなる御業をなして下さったことを、心より信じるものとなりたいと思います。そしてマリアは、お腹に宿っている赤ちゃんが誕生するのを待ちました。臨月近くたってから、ローマ皇帝の命令によって、住民登録のために長い旅に出なければならなくなりました。臨月近くなってからの旅というのは、非常に苦痛だったと思います。しかし、マリアはそれをも受け入れて、旅に出たのです。そして、その旅先で、イエスが誕生したのです。マリアは、困難なことに遭遇しても、そこから逃げたり、避けたりするのでなく、それを受け入れましたが、その時々に神の守りが与えられました。そしてその先には、御子の誕生という大きな喜びが与えられました。この物語は、迫害の中にあっても、神の言葉を捨てるのでなく、受け入れた当時の人々の素直な信仰から産み出されたものです。