1月25日(水) 全校礼拝

高等学校

中学校

1月25日(水)全校礼拝が実施されました。

 

聖書:マタイによる福音書18章21-35節
讃美歌:451番
「赦しについて」

 今日は、赦しということについて考えたいと思います。私たちは、人から被害を受けたとき、どれ位赦すことができるでしょうか。被害が大きければ大きいほど、相手を赦すことはできないと思います。今日のところでペトロは、イエスに「7回までですか」と聞いています。この「7回まで赦せ」という教えは、当時のユダヤ教の教えにありました。人を赦すということは、本当は非常に難しいことです。人間的にできた人で寛容な心の持主であっても、表面的に人を赦せたとしても、心の片隅では、いつまでも赦すことができない、ということがあります。1~2回ならなんとか赦せても、ここのペトロのように7回も赦せるとしたら、非常に寛容な人でしょう。人間というのは、中々自分に加えられた被害を忘れ去ったり、赦したりはできないものです。自分に加えられた侮辱とか侮りといったものは、たとえ20年前30年前のものであってもしつこく覚えているものです。 しかしイエスは、「7の70倍までも赦しなさい」と言われます。これは7X70=490で、ペテロの7回は少ない、もっと多く490回まで赦しなさい、と言っているのでしょうか。これはもう数え切れない、無限ということです。それを説明するために、ここでこのたとえをイエスは語ったのです。ある人が友達に会って、貸していた百デナリオンを返せと言った、というのです。1デナリオンというのは、当時の日雇い労働者の1日の賃金に相当する額だと言われています。仮に5千円とすると、百デナリオンだから50万円になります。50万円といったら大きなお金だから必死になって取り返そうとするのは分かります。この仲間は、お金がなかったのでしょう。もう少し待ってくれるよう必死に頼んでいます。しかし、この男は赦さなかったのです。この男は、仲間(友人)に対してですから、少し冷酷であるかも知れませんが、借金の時にかわした契約の通りしているのであれば、特に間違ったことはしていません。私達の普通の世間では、よくあることかも知れません。契約の通りに返せなかったら、それなりの処分や罰があります。ここだけを読むと確かに少し冷酷とは思いますが、並外れて間違ったことをしている訳ではないと思います。 しかしイエスは、実はこの男はそれ以前に神から莫大な負債を赦されたのであって、それを忘れてしまっている、あるいはそれを無視している所にこの男の問題があるのだ、と言っています。33節に。
  わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。
まず主人(神)の憐れみがあります。そして、それに応えて私達も仲間を憐れむべきだ、と言われています。イエスはここで、神が私達に与えた赦しがいかに大きいものであるかということを、たとえで教えておられます。この家来は、実は王に1万タラントンの借金があったのだ、とイエスは言います。この一万たらんトンというのは、実に3000億円という計算になります。この家来は確かに50万円もの金を仲間に貸していましが、その60万倍の金を王から赦されたというのです。こんな大金は一生かかっても到底返すことはできません。最初は、妻子まで売るようにと言うのですが、この家来が哀願している姿を見たとき、主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった、というのです。この主君は、いったんは自分と妻子も奴隷に売って借金を返せと言いましたが、ひれ伏して哀願している姿を見て「憐れに思った」とあります。そして、この憐れな姿を見た王は、この1万タラントンという莫大な借金を赦してくれた、というのです。そしてイエスは、これが神の私達に対する態度だ、と言うのです。この男は一生かかっても返せないような借金を赦されたのに、その直後にわずかの金を貸した友人に会って、これを赦せずに獄にぶち込んだ、というのです。もし私達に実際にこんなことが起こったとしたならば、簡単に赦すと思います。たった今、一生かかっても返せない多額な借金を赦されたすぐ後に、こういう冷酷なことをするでしょうか。もしそうなら、この男は世にもまれな特別に冷酷無比な人であったのでしょうか。この男は特別な冷酷な人というのではなく、私達と同じです。すなわち、赦されているものの大きさが分かっていないのです。否、そもそも自分は「赦された者だ」という自覚がないのです。私達も、あるいは神からどれほど大きなものを赦されているかを分かっていないのではないでしょうか。イエスはここで、「私達は、神によって実に大きなものを赦されているのだ」ということを言おうとしているのです。しかもその赦しは、私達が一生かかっても返すことのできないような莫大なものを赦されているのです。しかし私達は、このことに気がつかないのです。気がついたとしても、その赦しがこれほど莫大なものである、ということを知らないのです。それだからこそ、他人のほんのささいなことも赦せないのではないでしょうか。私達は、他の人を赦さなければならないというのでなく、私達が神によって「赦された者」であるということを、心から受け入れることが出来れば、他の人をも赦すことができるでしょう。