4月25日(火)に、アリーナにてイースター礼拝とイースター作文朗読が行われました。
イースター礼拝は、今年本校で初めて行われた礼拝です。
「イースター」は<復活祭>ともいい、十字架で処刑されたイエスキリストが3日後に復活したことを祝い、記念する、キリスト教の重要な行事の一つです。近年、日本でも注目され始めていますね。
今年は「振り返りとこれからへの思い」というテーマで、全校生徒が作文を書きました。
そして今日、各学年の代表生徒が壇上に上がって、自分の作文を朗読しました。
中学1年生 『中学生になって』
中学2年生 『先輩への思い』
中学3年生 『過去を振り返り、未来に向かって歩む』
高校1年生 『私の高校デビュー』
高校2年生 『自分を見つめ直し、そして成長』
高校3年生 『私の将来の夢』
それぞれの未来への思いがこめられた、素晴らしい作文でした。
期待と希望を胸に、これからの学校生活を送ってくださいね。
エゼキエル書37章1-10節 「希望に生きる」
学院長 樋口 進 牧師
今日はイースター礼拝です。イースターは、キリスト教の三大祭りの一つです。
三大祭りの一つは、クリスマスです。
これは皆さんご存じだと思いますが、イエス・キリストの誕生を記念するお祭りです。
もう一つが、このイースターですが、これは、イエス・キリストの復活を記念するお祭りです。
もう一つは、ペンテコステ(聖霊降臨日)と言いますが、これは余り知られていないと思います。
さて、イースターは、年によって日が違うのですが、今年は、4月の16日でした。
これには、特別の計算方法があるのですが、今日は割愛します。
とにかく、イースターは、イエス・キリストの復活を記念する日です。
復活、死んだ人が生き返る、私たちの頭では考えられないことです。
これを科学的に証明する方法はありません。
具体的にどういうことが起こったのか、それは聖書にもはっきりとは書かれていないのです。
書かれているのは、それぞれの弟子たちが、復活のイエスに出会ったというそれぞれの体験が書かれているのです。
それぞれが違う体験をしているのです。
ある人は、道を歩いている時に復活のイエスに出会ったのだが、それが誰か最初分からなかったが、一緒に食事をしている時に、それがイエスだと分かった、しかしその瞬間に消えてしまった、というのです。
しかし、共通して言えるのは、みんな希望が与えられた、と言うことです。
弟子たちにとって、イエスが一番大事であり、一番尊敬していたのです。
そのお方が、突然、十字架にかけられて殺されてしまったのです。
ここで、彼らはみんな、絶望状態に陥ったのです。
しかし、復活のイエスに出会うという体験をすることによって、絶望が希望に変えられたのです。
そして、イエスの教えていたことの意味がはっきりと分かったというのです。
そして、そのイエスの教えを他の人に伝えていく力が与えられたというのです。
さて、今日お読みしたは、旧約聖書のエゼキエル書です。
これは、イエスよりも600年位前の預言者が見た幻の記事です。
この幻も、イエスの弟子たちが体験したのと同じようなことが言われています。
どんな幻かというと、ある谷に多くの骨が散らばっていた、と言うのです。
恐らくここで、かつて戦いがあり、多くの兵士が殺されたのでしょう。
しかし、それから相当時が経ち、もう骨は白骨化していた、と言うのです。
しかし、その枯れた骨に、預言者が神の言葉を語りかけ、神の霊が吹きかけられると、それらは生き返り、多くの兵士となった、と言うのです。
ただこれは、幻であって、実際にこのようなことが起こった、というのではありません。
それでは、この幻が意味していることは何か、と言うことです。
それは、その後に書かれているのですが、「枯れた骨」というのは、当時のイスラエルの人々の絶望状況を表しているのです。
当時のイスラエルは、バビロニアという国に滅ぼされ、多くの人が捕虜として、敵の地に連れて行かれたのです。
そこで人々は、絶望状況に陥ったのです。
しかし、この預言者が、その絶望している人々に神の言葉を語り、神の霊が働いてくれるように祈った所、生きる希望を与えられた、と言うことなのです。
絶望が希望に変えられた、これが復活の体験なのです。
人間は、貧しさには耐えられます。
また、肉体的な苦痛にも、かなりの程度耐えられます。
しかし、自分が一番の頼りにしていた精神的な拠り所を突然失ったならば、絶望に陥るのないでしょうか。
たとえ、食べて寝てと肉体的に生きていても、精神的には全く死んだ状態です。
これが、「枯れた骨」と言われているものです。
人間は呼吸をし、動いているだけでは、動物的に生きていても、真に人間として生きているとは言えません。
目的を持ち、希望を持ち、たとえ苦労しながらでも喜びを味わい、積極的な意味を持っていなければ人間として生きるということにはなりません。
肉体的に生きるだけでなく、精神的に生きなければなりません。
まさに絶望状況にある人に希望を与えた、これが復活の体験だったと思います。
「アンパンマン」という漫画の作者であるやなせたかしさんは、92歳で亡くなりましたが、彼の自伝的な本に『絶望の隣は希望です』というのがあります。
彼は、次のような詩を作っています。
絶望のとなりに
だれかが
そっと腰かけた
絶望は
となりのひとに聞いた
「あなたはいったい
誰ですか」
となりのひとは
ほほえんだ
「わたしの名前は
希望です」
これは、やなせさんの実際の体験から作られた詩です。
彼は、漫画家になったのですが、40代、50代の頃は、代表作がなく、いろんな仕事をしながら、生計を立てていたそうです。
そしてしばしば絶望状態に陥ったそうです。
そんなとき、ある漫画家の先輩からこう言われたそうです。
「やなせ君、きみが落ち込む気持ちは分からんでもないが、人生はね、一寸先は光だよ。いいね、途中でやめちゃったら終わりだよ」と。
ここでやなせさんは、先輩の「一寸先は光」と言われた言葉に、非常に励まされ、地道に漫画を書き続け、ついに「アンパンマン」で大ヒットした、ということです。
これはもう、60歳になる頃だったということです。
ここから、絶望のとなりに希望がある、という詩を書いたのです。
イースターの時に弟子たちが体験したことも、先ほどのエゼキエル書の幻においても、絶望が希望にかわることが言われていました。
私達も、絶望に陥ることなく、希望をもって人生を歩みたいと思います。