6月6日(火)、放送礼拝が実施されました。
雨は上がり、青空が広がっています。
今週は、賛美歌21の60番『どんなにちいさいことりでも』を歌っています。
メロディが覚えやすく、歌詞もやさしいので、思わず口ずさんでしまう人も多いようです♪
1番 「どんなにちいさいことりでも かみさまはそだててくださる」って、イエスさまのおことば。
2番 「なまえもしらない野のはなも かみさまはさかせてくださる」って、イエスさまのおことば。
3番 「よいこになれないわたしでも かみさまはあいしてくださる」って、イエスさまのおことば。
子どもたちは、特に3番の歌詞が好きだそうです。
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マルコによる福音書 10章42-45節 「仕える者になりなさい」
学院宗教主事 樋口進
今日お読みいただいた聖書の箇所は、イエスの弟子のゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスにお願いをしたという記事です。
どんなお願いをしたかというと、イエスが栄光を受ける時、すなわち、この世の支配者になる時に、彼らは自分たちを最も高い地位につけてほしい、とお願いしたというのです。
さて、この二人の願いを聞かれたイエスは、非常に悲しまれました。
また、このヤコブとヨハネの願いを聞いた他の弟子たちは皆、腹を立てたというのです。
41節には、「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」とあります。
他の10人の者が何故腹を立てたかというと、彼らも実は同じことを願っていたからでしょう。
彼らは決して、イエスの思いに立って腹を立てたのではありません。そうではなく、自分たちも同じ思いをもっており、それを二人に先を越されたと思ったので、腹を立てたのでしょう。そこでイエスは、42節のように言われました。
そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
異邦人の支配者というのは、ここではローマ帝国の支配者のことです。
彼らは支配している人々の上に権力を振るっていました。
当時のユダヤは、ローマ帝国の支配下にあり、特に重税で苦しんでいました。
このような帝国の支配者は、被支配国に権力を振るって、自分の欲を満たしていたのです。
すなわち、被支配国から富を吸い上げて、例えば自分の宮殿を建てるといったことをしていたのです。
これがこの世の権力者の常の姿です。
しかしその反面、権力者に支配されている人々は、非常に苦しい生活を強いられていました。
権力を求めるということは、そのような非常に苦しい立場の人々を作り出すということなのです。
そのように、権力を志向することが神の御旨でないことは、弟子たちも分かっていたはずです。
しかし、現実には、弟子たちもやはり人間であり、イエスがただの人でないことが分かると、権力の座について欲しいと願ったのです。そしてその暁には、自分が最も高い地位につけてもらいたい、と思ったのです。さらに、他の弟子たちも同じ思いをもったので、互いに相手のことに腹を立てたのです。
しかしイエスは、「しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない」と言われます。
そして、43-44節のように教えられました。
しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
そしてイエスは自らこれを行われました。すなわち、イエスは食事の席で、自ら弟子たちの足を洗われたたのです。
当時、食事の時に足を洗うのは、召使いの仕事でありました。
イエスは、弟子たちからすれば、先生であったので、むしろ弟子たちがイエスの足を洗うべきでした。
しかし、イエスは、弟子たちの足を洗うことによって「仕える者になりなさい」ということを自ら実践されたのです。
インドで貧しい人のために仕える仕事に一生をささげ、ノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサは、イエスのこの「仕える者になりなさい」という教え、実践したのです。
彼女は、身寄りもなく、誰にも看取られない人に、愛の手をさしのべて、しばしの安らぎと喜びを与える、という活動をしたのです。
イエスの教えた「仕える者になりなさい」というのは、奉仕の精神と言われます。自分の権力や自分の利益を求めるのでなく、人のためにする、人に喜んでもらえることをする、ということです。
マザー・テレサは、自分は誰にでも出来ることをしたに過ぎません、と言っています。
路上で死に行く人の手を優しく握ってやる、ということは誰にでも出来ます。
しかし、人間は、プライドが邪魔してなかなか出来ません。
人のためにする、たとえば、ボランティア活動などはそうでしょう。
災害に遭って困っている人のために、ちょっと手伝ってやる。
あるいは、電車でお年寄りに席を譲ってやる、ということも奉仕の精神と言えるでしょう。
このようなちょっとしたことは、私たちの周りにたくさんあると思います。
みんなの使っているところが汚れていたとき、みんなのためを思ってちょっと掃除をする、といったことも「奉仕の精神」であると思います。
そんなオーバーなことでなくていいのです。しかしその時、ちょっと恥ずかしいとか、自分のプライドを少し捨てなければなりません。
奉仕というのは、英語でServiceと言いますが、Serviceを辞書で引くと「礼拝」という意味もあります。
礼拝というのは、神への奉仕なのです。今、皆さんは礼拝をしていますが、礼拝において神の言葉を聞く、お祈りをする、讃美歌を歌う、これも神への奉仕なのです。
イエスは、神に仕えることと、人に仕えることを教えられました。皆さんも、是非、ちょっとしたことでいいですから、自分の利益のためでなく、人のために仕えることをしてみてください。