11月7日(火)に、放送礼拝が実施されました。
マタイによる福音書7章7-12節 「求めなさい」
学院宗教主事 樋口進
私たちにとって、探求心というのは、非常に大事だと思います。
今読んでいただいたマタイによる福音書7章7節には、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」とありました。
これは非常によく知られている言葉ではないでしょうか。
キリスト教を知らない人でも、この言葉を知っている、と言う人も多いのではないでしょうか。
この聖書のことばは、音楽室の前の階段の所の壁に習字で書かれた額があります。
是非見ておいて下さい。
これは、一生懸命探求すれば必ず与えられるというふうに解釈されて、多くの人の心に留められているのではないでしょうか。
ここでイエスは、単なる処世訓を言っているのでありませんが、しかし私たちが神に一生懸命求めるならば、神は必ずそれを与えて下さる、ということを言っているのです。
それでは、私たちはどんなことを求めても神は与えて下さるのでしょうか。
例えば、自分の嫌いな人が不幸になることを求めても、神はそれに答えてくれるのでしょうか。
恐らくそんな自己中心的な求めには答えてくれないでしょう。
「求める」という場合、自分のことだけを求めるなら、それは自己中心的になり、他の人を苦しめるという結果になりかねません。
そこで、イエスは、相手の立場に立って考えるべきだとして、12節に於いて、次のように言われました。
「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」
宮沢賢治は、「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」と言いました。
自分の幸福が他の人を不幸にしているということがよくあります。
戦争なんかはそうでしょう。
こちらが勝利すれば、相手は不幸になっている訳です。
自分が何かを求める時、他の人も同じ求めをもっている、と言うことです。
イエスが教えた「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」という言葉は、一般に「黄金律」と言われています。
その名の通り、最も高い人間の倫理でしょう。
もしすべての人がこれをすることが出来れば、世の中は幸福になると思います。
これと同じような教えは他の宗教にもあります。
例えば、孔子は論語の中で、「己の欲せざるところは、人に施すなかれ」と教えました。
これは、儒教の教えとして、日本人にも深く浸透しているのではないでしょうか。
親が子によく言うことは、「とにかく、人に迷惑をかけないように」と言うことではないでしょうか。
ユダヤ教のタルムードに於いてもこの論語の言葉とよく似たものがあります。
「あなたの望まぬこととを、あなたの隣人に対してしてはならない。これが法のすべてである」という言葉です。
いずれも、自分にとって嫌なことを他人にしてはならない、という教えです。
これは重要なことであり、人間が社会生活を営んでいく時には守らねばならない基本的なことでしょう。
しかし、イエスの教えた黄金律は、これと少し違います。
すなわち、自分にとって嫌なことを他人にするなというのは、少し消極的な態度です。
他人に迷惑にならないように、当たり障りのない生き方をする、ということになります。
これに対してイエスの「人にしてもらいたいことは、人にもしなさい」というのは積極的な態度です。
しかし、それは中々困難なことです。
イエスの姿勢は、人に求める前に、自らがその人になしていく、というものです。
もし、人に信用されたいと思うなら、自分がまずその人を信用することです。
相手を心の底から信用していないのに、どうして相手から信用されるでしょうか。
もし、友達に愛されたいと思うなら、まず自分が本当にその友達を愛していくことです。
人の尊重されたいと思うなら、自分がまずその人を尊重することです。
イエスはまさにこれを行われたのです。
しかし、私たちには、中々そのことは難しいのです。
どうしても、自分中心的な求めになりがちです。
そこで7節にかえって、「求めよ」というのは、この黄金律に従うことの出来るようなあり方を求めよ、ということではないでしょうか。
私たちのいろんなことを求める探求心は、非常に重要ですが、それが自分だけのものとなるのでなく、他の人のことも考える心を持ちたいと思います。