ヨハネによる福音書13章1-5 「人に仕える」
学院宗教主事 樋口進
イエスは、十字架にかけられる前の晩、弟子たちと食事をされました。
これが、「最後の晩餐」と言われているものです。
今日の記事は、この最後の晩餐の席でイエスが弟子たちの足を洗われたという話です。
この当時、足を洗うというのは、召使いの仕事でした。
お客を食事に招くとき、お客が食事の席に着く前に、召使いがまず、お客の足を洗ったのです。
従って、食事の席で足を洗うということは、身分の低い人のする事だと考えられていました。
しかし、先生であるイエスがこの人に仕える仕事をされたから、皆びっくりしたでしょう。
これは、弟子たちに人に仕えるということを身をもっておしえようとされたのです。
しかし、そういうことは誰もやりたがらないことです。
誰もやりたがらないことをする。
これは、難しいことです。
ノーベル平和賞を受賞したインドの聖人マザー・テレサは、「誰にでも出来ることをしただけだ」と言いました。「しかし、それを誰もしなかった」とも言いました。それでは、どんなことをしたのでしょうか。
それは、死に行く人の手を握る、ということでした。
そのきっかけはこうでした。
彼女はあるとき、インドの道ばたに倒れている一人の男の人を拾い上げ、自分の家に連れて行き、静かに見守ったのです。その人は最後にこう言いました。
「私はずっと道ばたで動物のように生きてきました。でもいま、私は天使のように死んでいくのです。愛され、大切にされながら。」
そう言って美しいほほえみを浮かべて亡くなった、というのです。
そこで彼女は、こういう人に寄り添うということをされました。
これは特別なことではありません。
しようと思えば、誰にでもできます。
しかし、誰もしなかった、というのです。
マザー・テレサは、相手の立場に立ち、身寄りのないただ死を待つ人に愛の手を差し延べ、しばしの喜びと安らぎを与えました。
そして「死を待つ人々の家」を作り、そういう人に寄り添ったのです。
それは、己にプライドがある限り出来ません。
先ほどの所で、イエスは、弟子たちの足を洗うに先立って、「上着を脱いだ」とあります。
これは、己のプライドを捨てた、ということです。
「足を洗うなんて、召使いのする仕事だ」というプライドがある限り、足を洗うことは出来ません。
イエスは、まず上着を脱いだのです。
一方弟子たちは、この晩餐の席で、自分たちの中で誰が一番偉いか、と論じ合っていた、とあります。
弟子たちは、中々自分のプライドを捨てられない。いや、それどころか、自分以上に見せようとします。
マザー・テレサは、イエスから人に仕える、ということを学び、そしてそれを実行しました。
これは、思いやりの精神だと思います。彼女は、次のように言っています。
人間にとっていちばんひどい病気はだれからも必要とされていないと感じることです。
人は一切れのパンではなく、愛に、小さなほほえみに飢えているのです。
だれからも受け入れられず、だれからも愛されず、必要とされないという悲しみ。
これこそほんとうの飢えなのです。
そして、イエスが弟子たちの足を洗ったと言うことから学んで、このような人に仕えることを行ったのです。
私たちも、小さいことでいいと思います。人に仕えることをしたいと思います。