2018年6月22日(金) 全校礼拝が行われました。
宗教主事の樋口進学院長が、
詩編46編2~8節 「苦難のとき」と題して、お話をしてくださいました。
去る18日(月) 7時58分頃、大阪府北部を震源とするマグニチュード6.1、最大震度6弱の地震が起こりました。私はちょうど学校に来る途中、ポートライナーに乗っていた時で、中公園で止まってしまい、そこから歩いて学校に来ました。交通はすべて止まってしまい、学校は休校になりました。この地震で、高槻市、茨木市でブロック塀や家具の下敷きになって5名の方がなくなり、400人以上の方が怪我をされたと言うことです。私たちはまず、尊い命をなくされた方々に哀悼の意を表したいと思います。また、今なお1,500人もの人が避難生活を強いられているということで、被災されている方々のためにも支えを祈りたいと思います。
また、2011年3月11にはマグニチュード9.0という東日本大震災に見舞われ、地震と大津波とそれに原発の事故という、いまだかつて経験したことのない惨劇を受けました。この大震災のために死者と行方不明者を合わせると、2万人を超えているということです。
また私たちは、23年前に阪神淡路大震災も経験しています。この時は6千人以上の方が犠牲になり、夙川学院の高校生も2名犠牲になっています。私たちはこのような多くの「苦難のとき」を過ごしている人のことを覚え、神の助けを祈りたいと思います。
このような大震災でつくづく思わされることは、私たち人間の力は大自然の力の前には無力である、ということです。今や宇宙にまで行けるようになり、さまざまな難病を克服し、さまざまな便利な品があふれている現代文明ですが、自然の威力にはなすすべもありません。そういう意味では、人間は謙虚にならなければなりません。私たちには、祈ることしかできません。
さて、聖書にも自然災害については多く記されています。先ほどの詩編46編3-4節には、次のようにありました。
わたしたちは決して恐れない
地が姿を変え
山々が揺らいで海の中に移るとも
海の水が騒ぎ、沸き返り
その高ぶるさまに山々が震えるとも。
ここでは、地震と津波が暗示されています。ここにおいても、このような自然の大災害には人間は全くの無力です。神に祈るしかありません。そしてこの詩人は、神は必ず助けてくださる、と信じています。
2節には、
神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
とあります。また、6節を見ますと、
もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国は揺れ動く、
神がその声を出されると地は溶ける。
とあります。
ここには天変地異、あるいは戦争による激動があります。敵の攻撃にあった時の動揺は、想像を絶するものです。2節で、「山は海の真中に移るとも」と言われているのは、大地震のことかも知れません。「山」というのは、動かないもの、泰然としているものです。しかし、大地震によってそれが海の中に移るというのです。もしそんな大地震が来れば、私たちはあわてふためくでしょう。東日本大震災においても、地震や津波によって多くの家が破壊されたり、空港や石油施設が一瞬にして破壊されたりしました。私たちも大地震の恐ろしさというものを実感しました。
しかし、私たちを恐れさせているのは、そのような戦争とか天変地異だけではありません。私たちの普段の生活においても、いろいろなことで動揺したり、不安な気持ちになったりするのではないでしょうか。自分のちょっとした失敗や、人から言われたいやな言葉などによっても動揺したりするのではないでしょうか。
しかし、この詩編の詩人は、「たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。」と言っています。どんなことに遭遇しても、動揺したり不安な気持ちをもたずに、泰然としていられればいいな、と思います。しかし、中々そんなことは出来ないでしょう。この詩人がどんな時にも泰然と出来たのは、この詩人がどんな時にも神が共にいて下さる、と確信していたからでしょう。
8節には、次のようにあります。
万軍の主はわれらと共におられる、
ヤコブの神はわれらの避け所である。
聖書の言葉というのは、「苦難の時」に大きな力を与えてくれるものです。