2019年1月11日(金)の全校礼拝にて、宗教主事の樋口学院長が、
フィリピの信徒への手紙2章25-30節 「弱い者への配慮」と題して、お話をしてくださいました。
今の世の中は、業績主義です。入学試験はまずそうですが、企業もまた、激しい業績主義の世界です。何か業績を上げなければ、尊重されず、出世も出来ません。
皆さんもそうです。一生懸命勉強して、よい結果を出すと評価されます。スポーツでもそうです。一生懸命練習して、結果を出せば評価されます。しかし、いろいろな事情によって業績を上げられない場合もあります。
先日、レスリングの吉田沙保里選手が引退を表明されました。オリンピックで3大会金メダルを取りましたが、やはりもう業績を上げられないと思われたのでしょうか。
一生懸命努力していても、途中で病気になったり怪我をしたりすると、結果を出せない場合もあります。そしてそういう時、人から評価をされません。これが、業績主義の社会です。この業績主義の社会では、目に見えて何か具体的に業績をあげないと評価されないのです。ただ忠実に仕事を行っている、真面目に働いている、というだけでは駄目なのです。
この業績社会は、あくまで自分の業績を上げることが至上命令です。そこからは他人を思いやるという態度は出てきません。否、他人を犠牲にしてまで、自分の業績を上げようとします。
しかし、たとえ業績を出すことができなくても、その人自身の人格、その人自身の気持ちを見てくれて、評価してくれるということもあります。
今日読んでいただいたフィリピの信徒への手紙は、パウロという人が牢獄で書いた手紙です。
パウロは、キリスト教をいろいろな地方に伝えた人ですが、その伝えているときに、権力者に誤解されて捕らえられ、牢獄に入れられたのです。当時の牢獄の生活は、苛酷で食事も十分に与えられないようなこともありました。
しかし、その囚人の世話をする人を送るということもできたのです。そこで、パウロが牢獄に捕らえられていることを聞いたフィリピの教会の人たちは、パウロの世話をする人として、25節にあるエパフロディトという人を送ったのです。
このエパフロディトという人は、とてもパウロを尊敬し、一生懸命パウロの世話をしたのですが、途中で病気にかかり、パウロの世話をできなくなっただけでなく、逆にパウロにいろいろ世話にならなければならなくなりました。先ほどいった、業績をあげることができなくなったのです。そこで、エパフロディトを送ったフィリピの教会の人たちは、エパフロディトを全く評価せず、役立たずとして、非難したのです。
しかしパウロは、このエパフロデトの気持ちを評価して、彼は病気のために何の働きもできなくなったが、彼の気持ちを評価すべきだ、と言って弁護するために、この手紙を書いたのです。
パウロは、自分の世話をすることができなくなり、かえって足手まといとなったエパフロディトを役立たずとして非難するのでなく、エパフロディトの気持ちを見て、彼の人柄を評価し、深い配慮を示します。パウロは、こういう人々こそ尊重しなければならないのだ、と主張します。こういう人こそ、自分の弱さを知り、謙遜を身につけ、パウロを心から尊敬したのだ、と評価したのです。
パウロ自身にも一つの持病があり、それを自分で「一つのとげ」と言っていますが、それがかえって恵みであった、と述懐しています。
「キリストのわざのために命をかけ」とあります。
エパフロディトは、そういう業績主義ではなく、純粋な気持ちを第一にしていたのである、と。
パウロは、エパフロディトに深い配慮をもって弁護しているのですが、それはもしかすると業績主義の目でもってエパフロディトを何の役にも立たなかったではないかと批判的な目で見るかも知れないフィリピの人々に、彼は最も大切なもの、純粋な気持ちをもっていた、こういう人達こそ尊重しなければならない、ということを言っているのです。
業績主義の社会に生きている皆さんも、何かの事情で思うような業績を上げられなくても、決して落胆せず、皆さんの純粋な気持ちを評価してくれる人も必ずいるということを思って勇気を出して欲しいと思います。