全校礼拝

高等学校

中学校

全校礼拝が行われました。

毎週水曜日は朝に全校礼拝が行われます。
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5月20日、6月3日は以下のようなお話をしていただきました。

5月20日(水)
聖書    ルカによる福音書15:8-10
メッセージ          「かけがえのないもの」
          樋口 進 牧師

今日読んだ話は、「無くした銀貨」のたとえで、イエス様が話したたとえ話です。

ある女の人が銀貨10枚もっていて、その1枚を無くしたところ、それが見つかるまで家中をひっくり返して、一生懸命捜した、という話です。
これは当たり前のように思われます。私たちだって、お金を無くした場合には一生懸命捜すでしょう。
しかし、ここでこの女の人の態度が不思議に思えるのは、無くした銀貨が見つかった時の態度です。
見つかった時に、友達や近所の人を集めて、「一緒に喜んで下さい」と言った、と言うのです。

私たちもお金を無くした時に、それを一生懸命捜しはしますが、それが見つかった時に、友達や近所の人たちを集めてこういうことをするでしょうか。

莫大なお金を無くして、それが戻ってきた場合には、するかも知れません。
しかし、この時代の銀貨というのは、そんなに高価なものではありません。
ギリシアのドラクメ銀貨というもので、労働者の一日の賃金に相当する位であると言われています。当時の低賃金から考えて、仮に千円、あるいは2千円とします。
そのくらいのお金が一生懸命捜して見つかった時に、近所の人や友人を呼んで、この当時の習慣として、そういう場合は必ず大判ふるまいをするのです。
費用としては、当然見つかったお金よりもはるかに多くの費用がかかるのです。

この女の人にとって、その無くした1枚の銀貨は、他のものには代えられない、かけがえのないものであったからです。
それぐらいの何か特別の訳があったのです。
「10枚の銀貨をもっていた」とあります。
当時のパレスチナの貧しい娘が結婚する時、10枚の銀貨を鎖に通して、結婚の記念として両親がもたせた、と言われています。
恐らくここでも、この女の人が結婚する時に、その記念として両親からもらった銀貨の10枚だったのでしょう。

さて、この例えでイエス様が言おうとしていることは、
『神様は私たち一人ひとりを他の何ものにも代えることのできないかけがえのないものとされている。』
と言うことです。

親が自分の子を気に入らないから、それをだれかにあげて、もっと気に入る他の人をもらう、と言うことはないでしょう。たとえどんな子であっても、親にとっては子はかけがえのないものです。
それと同じように、神様にとって私たち一人ひとりは、それ以上にかけがえのないものとして下さっている、と言うのが、この例えでイエスが言わんとすることです。しかし、私たちは、神様からそんな大切にされていることに気がついていないかも知れません。
もし、そのことに気付いたら、神様は大喜びをしてくれる、と言うのです。

6月4日(水)
聖書    ルカによる福音書12:16-20
メッセージ          「いのちを考える」
          樋口 進 牧師

今日は、皆さんと共に、“いのち”ということを考えてみたいと思います。
現在私たちは、「生きて」います。
それは、“いのち”が与えられているからです。

しかし、この“いのち”は、いつかは取り去られるものです。
人間は、すべて死すべき存在です。これは誰も避けることのできない厳粛な事実です。
この点に関しては、人間はすべて平等だと思います。
どんなに財産があっても、どんなに知恵があっても、どんなに権力があっても、死を免れることのできる人はいません。

昔、秦の始皇帝は、自分の権力と財力でもって何とか自分の命を延ばそうとして、部下に不老不死の薬を全世界に探しに行かせたということですが、それは叶いませんでした。
死はすべての人に平等に訪れます。
そしてその時は、誰にも分からないのです。
弱々しそうな人が意外に長生きすることもありますし、元気はつらつとしていた人があるとき突然死ぬこともあります。

いつ命が奪われるかは分かりませんが、分かっていることは、私たちはいつかは“いのち”が取り去られる日がある、ということです。
この“いのち”は、私たちにはどうすることもできないものなのです。
私たちは、神によってこの“いのち”を与えられて、ある期間この世に生きますが、しかしいつかはこの“いのち”は神によって取り去られるのです。
それ故私たちは、この“いのち”に関しては、厳粛にならざるを得ません。

そして重要なことは、この“いのち”を与えて下さった神との関係に生きる、ということではないでしょうか。
“いのち”の主は私たちではなく、神である、ということです。

先ほどお読みしましたルカによる福音書に於いて、イエスは「愚かな金持ちのたとえ」をされました。
この金持ちは、自分の畑に沢山の作物ができたので、これを大きな倉に入れて、この後何年も生きていくことができる、と思ったのです。
その時神は、20節のように言われました。

「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」

この金持ちの農園主は、“いのち”の主は自分であると考えていたのです。多くの財産をもったので、いくらでも生きられると思ったのです。
しかし、“いのち”の主は、人間ではなく、神なのです。私たちの“いのち”は、この“いのち”の主である神によって与えられたのです。
そして、“いのち”の主は、また私たちから“いのち”を取り去ることもできるのです。

ここで“いのち”と訳されている語は、ギリシア語ではプシュケーと言います。
これはまた「魂」とも訳されます。
これは単に動物的に生きるという意味での生命ではありません。
もちろんそれも含みますが、その根本は、神との関係における本来の人間の“いのち”です。

この農園主は、沢山の食料を蓄えて、ただ動物的に生きることだけしか見えなかったのです。
そこには、その“いのち”が神から与えられたものという意識は全くありません。
私たちの“いのち”が、神から与えられたものと認識するならば、その“いのち”を与えて下さった神との関係に生きることが大切です。
神との関係に生きるということは、他の人との関係に生きるということでもあります。

“いのち”が神から与えられたものだと意識するなら、自分の“いのち”だけでなく、他の人の“いのち”も大切にします。
私たちは、一番大切な“いのち”を神から与えられているということを認識して生きたいと思います。