11月16日(水) 全校礼拝

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11月16日(水)全校礼拝が実施されました。
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聖書:ルカによる福音書15章25ー32節
讃美歌:493番
「共に喜ぶ」

 前回は、ルカによる福音書15章の「放蕩息子たとえ」の前半の話をしました。今日は、その後半の話です。
前半では、二人の兄弟の弟は、父の財産を分けてもらって、父の家から出て行って、放蕩に身をもち崩して、無一物になり、もうのたれ死にするしかないというときに、「我に返って」、すなわち悔い改めて、父の所に帰ったところ、父が大喜びして迎え入れてくれた、という話でした。この話しがここで終わっていれば、非常に感動的であると思います。今日の話がついていることで、せっかく感動的な話がぶち壊しになる、という印象も受けます。 さて、このたとえでは、父と兄と弟の3人が登場します。そして、この兄弟は非常に対照的です。兄は、真面目で、働き者で、親に良く従う優等生です。それに反して、弟は、ぐうたらで、怠け者で、親に逆らう問題児です。25節を見ると、「兄は畑にいた」とあります。この短い言葉から兄の日ごろの生活が想像出来ます。恐らく朝も、早くから畑に出て働いたであろう。さらに、29節では、「何か年も、父の言い付けにそむいたことがない」と言っています。これも本当のことでしょう。この兄は、真面目で働き者で、親に忠実な息子でした。もし、このたとえで、放蕩に身を持ち崩した弟が評価され、真面目で働き者の兄が非難されているとしたら、疑問を抱かざるをえません。 しかし、決してそういうことを言っているのではありません。弟の生活態度が褒められて、兄の生活態度が非難されているというのでは決してありません。このたとえを注意してみると、父は兄の生活態度に対して、けっして怒ったり、非難したりはしていません。むしろ、31節の「私の物は全部あなたのものだ」という言葉から想像して、父にとってこの兄は自慢の子であった、と思われます。今日の話においても、兄の生活態度に対しては少しも非難されてはいません。
 ただ、一つの点が、しかし問題なのです。すなわち、非寛容ということです。28節に、「兄は怒って家に入ろうとしなかった」とあります。この兄の態度は、しかし分からないことはありません。自分は親のいいつけを忠実に守って、朝から晩まで畑で一生懸命働いているのに、弟は親の財産を先取りして、しかもそれを遊びのために全部使い果たしてしまった、そしてその揚げ句の果てに、のこのこと帰ってきたのです。考えてみると、これははなはだ勝手な行動です。ところが、この兄は、自分の弟に向かって直接その怒りを投げ付けてはいないのです。父の態度に対して怒っているのです。29ー30節には、次のようにあります。
  しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』兄は弟に対して直接怒りをぶちまけるのでなく、父の態度に対して、父が余りにも寛容すぎるのではないか、という風に怒っているのです。親に忠実であった自分は、子やぎ一匹も御馳走してくれたことはない。しかし、放蕩で財産を使い果たした弟は、帰ってきたというだけで、子牛を御馳走になっている。余りにも不当な取り扱いではないか。余りにも不公平ではないか、と言っているのです。私達はこの兄の怒りがむしろよく分かるのではないでしょうか。私達がこの兄の立場にたたされたなら、同じ言葉を吐くのではないでしょうか。人間は常に自分を他と比較して、他の人より多くの報いを受けたいと思います。特に自分が一生懸命、真面目にしている場合は、他の人より多くの報いを受けてしかるべきだ、と思います。自分が寛大に取り扱われていることに対しては、余り気付きません。しかし、他人が不当に寛大に取り扱われるならば、我慢が出来ないのです。こういう時、すぐ不公平だと非難します。そういう点からすると、この父の態度は不当に寛大であり、不公平でしょう。私達も他人が不当に寛容にされたときは、それを喜ぶよりもむしろ怒りを感じることが多いのではないでしょうか。ここで父は、「喜び祝うのは当たり前だ」と言っています。父親にとっては、もう死んだと思っていた息子が帰ってきたなら、手放しで喜びます。そして父親は、兄にもその喜びを共にしてもらいたかったのです。神は、ご自分だけが喜ぶのでなく、この喜びを共にして欲しいのである。兄は、とても真面目で働き者でしたが、この共に喜ぶ、という態度が欠けていたのです。父に忠実である、と言いながら、父の喜びを共にできなかったのです。しかし、「共に喜ぶ」ということは、実はなかなか難しいことかもしれません。パウロは、ローマの信徒への手紙12章15節で「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」と言っていますが、泣く者と共に泣く、不幸な人に同情することは出来ても、喜ぶ者と共に喜ぶことは、なかなか難しいのです。 兄は、父が弟に対して、不当に寛大であると腹を立てていますが、自分に対して寛大であることには気付いていないのです。父の家にいていつも父の愛を受けつつ、何不自由なく暮らしていたこと自体が大きな恵みであることに気付いていないのです。神は腹を立てることではなしに、共に喜ぶことを求めます。