マタイによる福音書25章35-40節 「小さい愛の行為」
学院宗教主事 樋口進
イエスの生涯の歩みは、「最も小さい者に愛を示された」と総括できるのです。
私たちは、いろんな人に評価されています。
そして、評価する人によって、評価がいろいろ違うのです。
今日読んだ話は、キリストの評価、と言えるでしょう。
そして、キリストの評価は、世間一般の評価とは違うのです。
この世においては、一国の総理大臣のような高い地位についた人、出世した人、財産を積んだ人、いろんな業績を上げて有名になった人などが評価されるかもしれません。ノーベル賞などは、最大の評価かもしれません。
さて今日の話では、キリストは、ほんの小さな愛の行為をした人を評価されるのです。
40節には、つぎのようにあります。。
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟である この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
ここでキリストは、最も小さい者のひとりにしたのは、わたしにしてくれたのだ、と言って評価しています。
しかし、この人は、キリストに評価された行為には全然気づいていないのです。
37-39節には次のようにあります。
すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
すなわち、この人にとっては、自分のしたことが特別愛の行為だとは意識されておらず、それが当然のこととしているに過ぎないのです。
親が子どもを愛する場合、そうでしょう。
別に自分は特別愛の行為をしているという意識はありません。
子どものことを思って、すべきことをしているに過ぎないのです。
今日のテキストにおいても、キリストにほめられている人は、王に対して小さな愛の行為を指摘されるまで、自分がそういうことをしたことに気づいていないのです。
今日の所では、そういう自己主張ではありません。
自分でも忘れてしまっていることを、神がご覧になっていて、評価してくださっている、というのです。
ここで、王から祝福を受けた人は、指摘されなければ自分でも気がついていないのです。
空腹な人に食物を与え、病気の人を見舞い、獄に捕らえられている人を見舞うといったことです。
貧しい人、困っている人に、自分のできる小さなことをしただけです。
ここで思い出すのは、トルストイの「靴屋のマルティン」という話です。
このマルティンは、貧しい靴屋でした。彼の家族は、次々と亡くなり、とうとうマルティン一人になってしまいました。
ある時、マルティンは夢でイエスの声を聞きました。
それは、イエスがクリスマスにマルティンの家を訪ねるということでした。
クリスマスの日、マルティンはごちそうを用意して窓から外を見ながらイエスの来るのを待っていました。
そこを雪掻き人夫が疲れた様子で通りかかりました。
マルティンは、その姿を見て、可愛そうに思い、その人を家に入れて、温かいお茶を1杯飲ませてあげました。
そうすると、その人は元気になって出ていきました。
その次に赤ん坊を抱いた貧しい身なりの母親を見ました。
また、マルティンは可愛そうに思い、その親子を家の中に入れ、パンとスープをあげ、赤ん坊にはミルクを飲ませました。
親子は喜んで帰っていきました。
次に、マルティンはリンゴを盗んで逃げてくる貧しい子どもを見て、その盗んだリンゴのお金をリンゴ売りに代わって払ってやりました。
結局、この話では、イエスはこの貧しい3人の人に姿を変えてマルティンの所にやってきた、というのです。
この貧しい3人にほんの小さな愛の行為をしたマルティンは、キリストによって、今日のテキストにあるように、
「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言って、祝福されたのです。
ここで言われているのは、ほんの小さな愛の行為です。
全財産をなげうつとか、生命を危険にさらせて何かをする、という大げさなことではありません。
困っている人や貧しい国に多額の寄付をする人がいます。
それは非常に偉いと思いますが、自分の名誉心からしている人もいます。
いかに自分が大きな慈善事業をしているかという宣伝をし、多くの人から名誉を得るのです。
わたしたちはここで、ほんの小さな愛の行いをする者に、とても大きな祝福を与えてくださる神のことを思うべきです。
インドで貧しい人に小さな愛の行為を行ったマザー・テレサもこのキリストの言葉に従って、小さな愛の行為を行ったのだと思います。
私たちも小さな愛の行為をすることによって、キリストに評価される者になりたいと思います。